1928年 日活京都撮影所作品 上映時間6分
原作・脚本・監督・・・伊藤大輔
撮影・・・・・・・・・唐沢弘光
〈配役〉
中山安兵衛・・・・・・・・大河内伝次郎
菅野六郎右衛門(伯父)・・実川延一郎
お堪婆・・・・・・・・・・市川春衛
町人・・・・・・・・・・・東木寛(伴淳三郎)
〈略筋〉
中山安兵衛(大河内伝次郎)は浪人(主人のいない失業中の侍)である。江戸(現在の東京)の貧しい人々の住む街に住み、街の人々の喧嘩があるとそれを止めさせて仲直りをさせ、喧嘩していた両方から金をせびって酒を飲むというような無頼な暮らしをしていた。それで喧嘩安とか呑んべ安と呼ばれていた。
1694年7月21日。その日も安兵衛は、街で喧嘩の仲裁をやって金を稼ぎ、酔っぱらって家に帰ってくる。するとそこに、彼の伯父の手紙が置いてある。小路は悪い侍たちから決闘をいどまれて、これから決闘の場所に指定された高田馬場へ行くところなのである。敵は多数である。安兵衛はすぐ酔いからさめ、刀を掴んで駆け出す。そして長い距離をマラソンよりも速く走りぬいた末に、すでに始まっている決闘に間にあって、数十人の敵を片っ端から斬り倒す。
〈解説〉
これは日本ではよく知られた物語である。中山安兵衛はこのとき、高田馬場へ駆け付ける途中の彼に 一本の紐を与えた女性と結婚し、彼女の父親の主人である浅野内匠頭の家来になり、のちに浅野の家来47人の盟約に加わって主人のために復讐を行って、最後には切腹して死んだ。こうして彼は伝説的に語り継がれることになる多くの侍の物語の英雄のひとりになった。映画でもこの高田馬場の決闘の物語は多くのチャンバラのスターたちによって繰り返し演じられた。
この映画で安兵衛を演じている大河内伝次郎は、1927年頃から1950年代のはじめ頃まで日本の時代劇映画でもっとも人気のあった何人かのスターたちのひとりであり、とくにこの「血煙高田馬場」が発表された1928年から数年間は確実にトップのスターだった。とくに伊藤大輔監督で彼が主演した一連の作品は観客を文字どおり熱狂させたものである。
伊藤大輔監督は、この映画の前の年に発表した同じ大河内伝次郎主演の「忠次旅日記」(1927)で、それまで単なる娯楽アクションものと見られていたチャンバラ映画に、はじめて深い人間味と芸術性を与えたと言われている巨匠である。その後の数年間、伊藤、大河内、そしてカメラマンの唐沢弘光のトリオはたてつづけにヒット作を出し、時代劇映画の黄金時代をつくりあげるうえにもっとも大きな推進力を発揮した。残念ながら、このトリオの作品は1931年の「御誂治郎吉格子」以外は完全なかたちでは殆ど残っていない。いくつかの断片が残っているだけである。この「血煙高田馬場」も、もともとは長篇であるが、これは短縮版である。完全版は失われている。
(佐藤忠男)