[Matsuda logo]


ENGLISH | JAPANESE
講演録

「イタリアの無声映画」

講演者:松田 豊
日時:1990年12月14日
於: 東京国際文化会館

本日上映の『アントニーとクレオパトラ』は1913年に製作され、日本では翌年の大正3年の3月に公開されています。この1910年代というのは、フランスの映画史家ジョルジュ・サドール氏の言葉をかりれば「映画が芸術になった」時代であり、イタリア映画が世界の映画史上において最も重要な役割を果たした時代です。すなわち、イタリア映画が技術面においても、製作面においても他のどの国よりも一歩先んじていた時代です。

先週の上映会に来て下さった方には、今日の『アントニーとクレオパトラ』を見ていただければ、映画が発明されてからの十数年の間に映画がどんなに進歩したか容易に理解いただけると思います。1894年にエジソンがのぞき箱の形をしたキネトスコープを作ったことで映画の原型が発明され、翌1895年にはリュミエールが、映像をスクリーンに映し出し、多数の人が同時に見ることのできるシネマトグラフを作ります。そして、1902年にジョルジュ・メリエスが『月世界旅行』を、1903年にエドウィン・S・ポーターが『大列車強盗』を作り、以前まではただ単に風景を撮影しただけだった映画が、これらの作品によってストーリーのある、10分から15分ぐらいですが、ドラマになっていった訳です。と、ここまでは先週のプログラムでした。

こうした段階を経て、映画が新しい表現手段の一つであることがわかると、映画を作る側からも、映画を単なる見世物から芸術に発展させようという動きが生れ、そこで頭角を現したのが、エジソンやポーターがいるアメリカでも、リュミエールやメリエスのいるフランスでもなく、イタリアであったのです。当時のイタリア映画の主流は、歴史劇、古典劇です。イタリアに残る史蹟、遺跡がそのまま映画に巨大な野外舞台を提供したわけです。今年の10月に私も、今日これから登場します澤登翠さんと共にイタリアの方へ行きまして、コーマのコロッセオをはじめとして遺跡をいくつか見て来たのですが、その大きさといい、石を積み上げていく建築技術といい、やっぱりすごいんですね。それをセットでの再現でなく、本物の迫力で映画に使うことが出来たというのは、表現力の面でも、又、資金の面でも他国よりずっと有利だったという事、言い替えれば、イタリア映画が史劇、古典劇を主に製作したと言うのは自分の国の特色をうまく映画に生かすことが出来たのであって、その成功が他国より一歩も二歩も抜き出た結果につながったと言えると思います。

イタリア映画が他国より抜き出たその他の理由として、自分の利益と娯楽のために、パトロン的な心意気をみせて映画産業に賭けてみようと自ら資金を投下しようとする貴族階級や大ブルジョアジーの実業家といった、今までの映画界にはいなかった新しいタイプの人間がイタリアの映画会社の経営陣に加わったことで、資金面の調達が楽になったことも上げることが出来るでしょう。

こうして次々と大作、すなわち10分から20分程度の作品が世界中の映画の大半だった時代に1時間を超える作品が続々と登場してきます。その中でも特筆すべき作品を2本挙げますと、1本は1912年の『クォ・ヴァディス』、これは『アントニーとクレオパトラ』と同じエンリコ・グァッツォーニが監督しています。物語は1世紀のローマにおける古代的世界観とキリスト教信仰の闘争という歴史的大事件が背景となる恋愛物で、原作は世界的ベスト・セラーとなり、ノーベル文学賞を受賞しています。30頭のライオン、3千人の出演者を使い、又、ローマ市街の大火災などのスペクタクル・シーンなどを随所に織込んで、映画の可能性、「映画ではこんなことが出来るんだ」ということを世間に知らせた作品です。

そしてもう1本は1914年に作られたジョヴァンニ・パストローネ監督の『カビリア』でしょう。これはイタリア無声映画史上で最高の傑作と言われています。ローマ対カルタゴの宿命の戦いを描いたロマンチックな歴史劇、大群衆劇ということです。『カビリア』は2年前に東京のイタリア文化会館で上映されていますが、その時の上映時間が、プログラムによりますと実に176分、3時間近くもある巨篇です。東京では1916年、大正5年に帝国劇場で公開され、その時の入場料が普通の映画の十倍の5円だったそうです。来週上映いたします『イントレランス』は、この『カビリア』以上の作品を作ろうと製作されたとも言われています。

しかしながら日本では、作品の質といった面ではもちろんこの『クォ・ヴァディス』や『カビリア』の方が高い評価を受けていたのですが、一般大衆の印象度といった面では今日の『アントニーとクレオパトラ』の方が強いんです。何故かというと日本には「弁士」がいたからです。特に封切当時、浅草の電気館にいた「染井三郎」の『アントニーとクレオパトラ』の説明は、後世に残る名説明として語り継がれ、レコードにも吹込まれて全国的にも評判となりました。

染井三郎は明治から大正にかけて活躍した弁士の第一人者です。弁士の元祖としては、キネトスコープの横に立って説明を加えた上田布袋軒(うえだ・ほていけん)ですとか、巡業隊を組織して巡回興行を行い、独特の活弁口調をはじめたという駒田好洋などが名前を残していますが、染井三郎は、映画、当時日本では活動写真と言いましたが、その常設館が出来て、そこの専属として定着した最初の弁士の中の一人です。そして、映像の補足的な説明から脱し、映像と語りが一本化する「芸」としての弁士の話芸が発展したのは、染井三郎の登場からだとも言われています。

染井三郎は日本で最初の映画常設館である浅草電気館でデビューし一世を風靡しましたが、ほんの一時期、関西へ行ったことがあります。染井三郎の語りの特徴は、淡々としてしゃべるところで、激するところがないので客観説明と評されたのですが、関西では淡々としすぎているということであまり人気は上がらなかったそうです。又、関西で人気のあった弁士が東京に来ても人気が出なかったということも数多くあったようで、関東関西の観客の好みの相違は、その頃はかなりはっきりしていたと言えましょう。

では、ここでその染井三郎の活弁のテープを、特別に少しだけ、特に活弁に英語を使ったという『アントニーとクレオパトラ』の最後の部分をお聞きください。ただ一つだけ付け加えておきますと、今日のテープは当時のものではなく、多分、昭和30年代の、染井三郎さんがかなりご高齢になられてから録音されたものであります。

(テープを流す)

どこで、英語を使ったかお分かりになったでしょうか? 「アントニー エンド クレオパトラ」というところの「エンド」が英語です。この「エンド」を入れたことで「さすが染井三郎は学がある」とすごい評判になったそうです。ちなみに、昨年のこの国際文化会館のシリーズでは、澤登さんが大河内傳次郎の『血煙高田馬場』を、10分たらずの作品ですが、全部英語で活弁をやっております。もし、これを当時やっていたら、昨年も東京新聞には載りましたが、きっと物凄い騒ぎになって、朝日や読売も号外の一つや二つは出たのではないでしょうか。

では、本日は澤登翠さんの活弁で『アントニーとクレオパトラ』を御覧下さい。


「日本の無声映画とフィルムの保存」

講演者:松田 豊
日時:1991年7月27日
於:東京・映像カルチャーセンター

御紹介戴きましたマツダ映画社の松田でございます。本日は特別講演ということですが、何が特別かと申しますと、私は本来こういった場所で講演が出来る程の技量は持ち合せておりませんので、人前で話が出来ない者が講演をするというのが特別なのであります。ですから、私の講演が終わった後で「あいつは何を言ってたんだか分らない」とか、「つまらない話を聞いてしまったなあ」とお思いになられる方もいらっしゃるかとおもいますが、そこが他の著名な、お話の上手な方の講演とは違う特別な講演と言うことであきらめて戴きたいと思います。

今回のこの無声映画特集で上映される作品をすべて私共の会社から提供させていただきました関係で私が今ここにいるわけなんですが、マツダ映画社と申しましても残念ながら知名度が低いので御存知ない方も多いと思いますが、無声映画鑑賞会を開催している所ということで、わかっていただける方も多いと思います。

そこで無声映画鑑賞会のことを中心に、無声映画の上映のあり方ですとか、無声映画の保存、復元のことなどについて少々お話をさせていただきたいと思います。

無声映画鑑賞会というのは、昭和34年に、私の父であり、弁士でありました松田春翠が中心となって始めた会でありまして、父は四年前に亡くなったのですが、鑑賞会の方は今でも毎月一回都内での上映を続け、この11月に400回の記念上映会を迎える事になっております。

無声映画鑑賞会には大きく分けて、二つの基本姿勢といいますか、ポリシーがありまして、一つは無声映画を製作された当時の上映形態、即ち、弁士と伴奏音楽付きで上映することによって無声映画の良さを再発見するとともに“活弁”という話芸を後世に伝えようということであります。

日本では無声映画を上映する活動写真館にはそれぞれ専属の弁士と楽団がいて、必ず活弁と伴奏音楽が付いて上映されていました。ですから、映画を作る側もそういう形で上映されることを前提として製作していたわけですから、無声映画をサイレントのままで上映するというのは、やはりその映画の持つ魅力のたいへん多くの部分をはじめから放棄してしまうことになると思うのです。

一つ例をあげると、昭和8年に五所平之助監督が田中絹代主演で製作した『伊豆の踊子』という映画があります。『伊豆の踊子』は何度も映画化されてますので、皆さんも内容は御存知だと思いますが、そのラスト・シーン、踊子の薫と学生の水原が下田の港で別れるシーンがあります。水原の乗った船が去って行った後に、長々と岸に打寄せる波が映し出されます。これは明らかに監督が弁士に謡いあげをさせるために撮ったシーンなんです。もしこれをサイレントのままで見たとすると、クライマックスの一番盛り上がるべき場面で、やたらと長い風景描写が出てくるわけで、弁士の語り無しで見た人には「どうしてこんな無駄なカットを一番良い場面に入れるのだろう」と思われてしまうわけです。

弁士の話芸は日本独特のものと言えます。欧米諸国でも無声映画の初期の頃に弁士の様に映画を語る人がいるにはいたそうですが、一般に定着して確立されたものでは無かったようです。弁士が無声映画時代の全期間を通じて存続し、映画になくてはならない要素になっていたのは、映画評論家の佐藤忠男先生のお話によりますと、日本と韓国とタイだけだったようです。韓国は当時日本の植民地であったし、タイではこの国で最初の映画興行をやったのが日本人の興行者たちだったので、いずれも日本の影響からと言えます。

音楽の演奏付きでの上映は世界中どこでも行われていましたが、日本の伴奏音楽はとても特徴のあるものでした。それは三味線、太鼓といった和楽器とバイオリン、ピアノ、トランペットなどの洋楽器の合奏だったということです。これは日本においてもそれまでには例のなかった、活動写真館においてはじめて行われた試みだったんですね。ですから、日本では無声映画をただ単にスクリーンに上映するだけではなくて、様々なくふうを凝らして、エンタテインメントとして作り上げていたんですね。昔の人たちは。ですから、今無声映画を上映する場合も、正直いった多くの制約があるんですが、エンタテインメントとして上映していこう、というのが無声映画鑑賞会のまず第一の姿勢です。

もう一つの無声映画鑑賞会の方針というのは、ベスト・テンに入賞した作品や映画史に輝く名作だけではなく、B級、C級の大衆映画であるとか、作品がほんの一部分の断片しか残っていないような作品もオミットせずに、上映していこうということです。

作品の評価というのはその時代、その時代で変わることがあるわけですし、そして当然のことですが、作品を見た一人一人の方が、それぞれ作品の評価を下すのであって、上映する側が下すわけではないということ。それに昔の映画ですから、過去にその映画を見た方というのも沢山いらっしゃるわけでした、そういった方はそれぞれの作品に御自分なりの思い出を持っていらっしゃるということ。そして何よりも、どこかで上映していかないと、完全な長さが残っていないから上映出来ないと言う事になりますと、断片すら決して見ることの出来ない幻の映画になってしまいますし、上映する事によってフィルムを使い道のある貴重なものとして、残していこうと言うことです。そうしないと、不完全なフィルムは残っていかなくなってしまいます。

今回のこの特集でも、昨日の『浪人街』、それから『国士無双』『血煙高田馬場』『山中貞雄作品集』と、部分的にしか保存されていない作品を上映させて戴きますが、こういう作品を上映しますと「どうして全巻上映してくれないんだ」と時たまお叱りを受けるんですね。で、「この作品はこれだけしかフィルムが残っていないんです」と説明しますと、「どうしてちゃんと保存しておかなかったんですか」って、また怒られちゃうんですね。別に私どもが怒られる筋合いではないんですけれど…。

日本の場合は、関東大震災とか戦争という不幸な出来事があり、とても多くのフィルムが失われてしまいました。

戦時中の日活の本社は京橋にありまして、東京の中心部なものですから、当然空襲で狙われるだろうということで、日活にあったフィルムを八丁堀に出来た大映本社の地下倉庫に移したら、皮肉なことに八丁堀の大映の方がやられてしまい、大量のフィルムが焼失してしまい、逆に日活の方が無事だったということもありました。そういった事で、オリジナルのネガが残っている作品というのが非常に少ないんですね。映画を見ると、多かれ少なかれ、画面に雨がふると言いますか、傷がついていますが、今上映されているフィルムのほとんどが、昔、映画館で何度も上映されたポジ・フィルムからプリントされたものだからであって、オリジナルのネガが残っていれば、今でも傷一つない映画を見ることが出来るんですね。

何年か前に、テレビ・ドラマの製作裏話の記事を新聞で読んだのですが、丁度昭和初期がドラマの舞台になってまして、主人公が映画館の中でニュース映画を見るというシーンがあって、そのニュース映画を新たに撮影したのだけれど、フィルムに傷がついてないのがおかしいと言うことになってですね、スタッフがそのフィルムを踏んづけたり、紙ヤスリで擦ったりして昔の映画の雰囲気を出したという苦労話が載ってまして、場末の映画館なら別ですが、封切館であれば、そんなヤスリで擦ったりしたような映画を上映したわけはないので、その記事を読んで思わず笑ってしまったことがあるんですが、昔の映画は傷がついて、雨が降っていると思わせてしまった、フィルムの保存状況というのは悲しいものがあります。

いま私どもで持っております作品の中に、大正14年に阪東妻三郎主演で作られた『雄呂血』という作品があります。これは、阪妻さん自身がオリジナル・ネガを持っていまして、そこから新しいネガを起こしましたから、今でも傷一つない、とても綺麗なプリントが出来ますので、もし機会がありましたら、是非御鑑賞下さい。

ただ、やはり、日本の場合は、製作した映画会社なり、行政の方にしてもフィルムを文化財として残そうという意識は、残念ながら欧米に比べて低かったと思わざるを得ません。

私の父は、弁士であると同時にフィルムのコレクターであり、現在の処、部分的にしか残っていない作品も含めて、全部で約1000タイトルのフィルムが私どもの会社に保存されておりますが、製作された本数から見れば微々たるものですし、そもそも父がフィルムを本格的に集めはじめたのは戦後の事ですから、一個人の力としてはこれが限界だったと思いますし、手前ミソになりますが、よくここまで集めたなと感じております。逆にいえば、同じ時期にもっと財力のある企業なり、国なりがフィルムの収集をはじめれば、もっと多くの作品が残ったのではないかと思います。

父がフィルムを集め出したのは、戦後、昭和22〜3年だと思いますが、九州地方で一時、無声映画が流行した事がありました。炭鉱景気で九州にたくさん人が集まったんですが、当時の事ですから娯楽が不足している。物資不足で新しい映画も配給されないということで、興行師が残っていた無声映画をもって一座を組んで興行をしていたんですね。それで、父も弁士として参加していたのですが、ある映画館で二日続けて同じ映画を見た時のことです。前日の上映ではあったシーンが、二日目には無くなっていることに気がついたのです。「良いシーンなのにどうしてカットしてしまったのだろう」と思って父が、映写室に行き尋ねると、「あのシーンになるとフィルムが痛んでいて、引掛かってしまうから、切って捨ててしまった」と言われたそうです。その時父の頭の中には、「果してこのフィルムが他にもまだ有るのだろうか」という事で、心配になり、それから興行の終わったフィルムを売って貰ったりして、集めはじめたわけです。

質屋さんの倉庫からフィルムが見つかったなんて話もありました。フィルムを質草に入れていたということなんですね。タダ当然で手に入れたフィルムもあれば、大金を出して手に入れたフィルムもあるということで、昨日上映した『実録忠臣蔵』は、日本映画の父と言われた牧野省三監督の五十歳を記念して作られた大作ですが、このフィルムを手に入れるのに父は家まで売ってしまったと聞いています。

又、先程上映しました『折鶴お千』と同じ溝口健二監督の無声映画時代の代表作で『瀧の白糸』という作品は98分の長さで保存されているのですが、これは6本のポジ・フィルムを得てやっとこの長さにまで復元できたものです。すなわち、上映が繰り返されるうちに色々な理由でフィルムが原型の長さを保てずに、カットされていってしまうのです。ですから、1本フィルムが見つかるといままで持っていたフィルムにはないシーンがあったりするわけです。

そうして集めたフィルムもそのままにして置くと、どんどん悪くなってしまいます。当時のフィルムはセルロイド製のもので、時が立つにつれて科学変化を起こして、はじめの症状として、フィルムがベトついてきて、そのうちに画面が白く消えていきます。又、当時のフィルムは可燃性ですから、気温の高いところに放置しておくと自然発火してしまいます。今から7年前ですか、京橋のフィルムセンターが火事になりましたが、これは古い可燃性のフィルムが自然発火したものです。

これからも無声映画が、どこかの倉庫の片隅から発見される可能性というのは、まだ残されていると思いますが、かなり条件の良い、温度と湿度が低い場所に保管されていないと、再びスクリーンに写して見るというのはかなり難しいのではないかとおもいます。

今回の特集も含めて、現在皆さんに御覧戴いている無声映画というのは、ほとんどが昔映画館で上映されていた可燃性のフィルムから新しいネガを起こして、そこから又、不燃性のニュー・プリントに焼きなおしたものです。新しいネガを起こすといっても、まずフィルムのクリーニングからはじめて、中にはフィルムの駒目が縮んでいて、現像する機械にかからないものなどもありまして、随分と時間と経費が係るものですから、現在のところ、まだ、父が集めたフィルムのすべてが不燃化出来ているわけではないのですが、これは、あまり時間的に余裕のある事ではないので、フィルムセンターの方々とも相談して、ご協力を頂きながら、努力しているというのが現状です。

フィルムの不燃化とともに、私どもで今進めているのがフィルムに弁士の声と伴奏音楽を録音する「活弁トーキー版」の製作で、この活弁トーキー版によって、将来的にも映画が活弁とともに残っていくということで、現在のところ40数本が完成してまして、そのうちの数本が今回のこの特集で上映されることになっておりますので、沢山の方に見ていただければ、それが又、フィルムの保存につながることですので、お時間のある方はぜひ、御来場いただければと思います。

以上で、私の話は終わりにさせていただきたいと思います。夜遅くまで、お付合いいただきまして、ありがとうございました。


HOME
[Matsuda company logo]