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無声映画人物録

嵐寛寿郎(あらし かんじゅうろう) 1903〜80
“アラカン”の愛称で親しまれ、「鞍馬天狗」と「右門捕物帖」という正義の味方、ヒーローを当り役とし、子供達から圧倒的な支持を得たスターである。

関西歌舞伎の俳優から27年にマキノプロに入り、嵐長三郎を名乗り『鞍馬天狗異間・角兵衛獅子』でデビュー。剣先がよく伸びてスピード感のある爽快な立回りで、たちまちにスターとなった。28年に独立するが、すぐに失敗。

31年に再び独立して嵐寛寿郎プロダクションを設立。『鞍馬天狗』シリーズと『右門捕物帖』シリーズを生涯の当り役として活躍、両シリーズの合計は八十本近くにのぼる。さらに、山中貞雄を監督に登用し、『抱寝の長脇差』(32年)といった名作も生み出した。57年には『明治天皇と日露大戦争』で明治天皇を演じて話題をさらい、晩年も映画、テレビと活躍した。

伊丹万作(いたみ まんさく) 1900〜46
当初は洋画家を志望していたが、新進監督として活躍していた同郷で親友の伊藤大輔監督の勧めで、脚本を書き始める。28年、片岡千恵蔵が独立プロを設立すると脚本家兼助監督として入社し、稲垣浩の処女作『天下太平記』の脚本を担当。自作シナリオ『仇討流転』で監督デビューを果たした。伊丹万作が残したシナリオは凡そ三十五編程で、その内二十二編を自身で監督している。いずれの作品も、独特なユーモアとウイットな精神に富んだ傑作であり、特に32年の『国土無双』は風刺とナンセンスの鋭い傑作喜劇であり、36年のトーキー作品『赤西蠣太』はユーモアにサスペンスを交えた名作となった。37年には日独合作の『新しき土』をアーノルド・フランクと共同で監督した。しかしながら、体が虚弱で療養のため、38年の『巨人伝』を最後に、若くして映画監督としての第一線を退かねばならなくなり、46年、惜しまれつつこの世を去った。息子は映画監督の伊丹十三。

伊藤 大輔(いとう だいすけ)1898〜1981
1898年(明治38年)10月13日、愛媛県宇和島市の生まれ。20年、文通していた小山内薫を慕って上京、氏の率いる松竹キネマ研究所へ入り、ヘンリー・小谷監督の『新生』で脚本家としてデビュー。24年、国木田独歩原作『酒中日記』を監督第一作として発表。27年に大河内傳次郎と組んだ『忠次旅日記』三部作で一躍スター監督となった。カメラの唐沢弘光、大河内傳次郎とのトリオで次々にヒット作を生み出し、日活時代劇黄金時代を築いた。権力に向かって闘う庶民のヒーローをリアルに描き、歌舞伎調、講談調であった当時の映画に“人間ドラマ”を吹き込んだ先駆者として高い評価を得ている。戦時中は持ち前の反体制、反権力的な体質が時勢に合わず不遇な時を過ごすが、戦後、阪妻と組んだ『素浪人罷り通 る』(47年)、『王将』(48年)で完全復活を果たし、70年の『幕末』に至るまで数々の名作を世に送り出した。81年7月19日、慢性の腎不全のため死去。

稲垣 浩(いながき ひろし)1905〜80
1905年(明治38年)12月30日、東京・本郷に生まれる。父親が新派俳優であったことから小学校一年にして東明浩の名で子役を演じ、ろくに小学校へも通えず、独学で勉強しながら舞台を務めた。次第に脚本家、監督を志望するようになり、22年に俳優として日活向島撮影所に入所後も伊藤大輔監督の“伊藤映画研究所”に加わり、28年に衣笠貞之助監督『十字路』で助監督を務め、同年伊藤監督の推薦で千恵プロ創立に参加、監督第一作『天下大平記』を発表する。その後半世紀に渡って百本以上の名作を手掛け、“巨匠”と呼ばれる大監督となった。人情味あふれる人柄がそのまま作品にも表れ、作風は一貫して人間の善意と愛を信じる素朴なヒューマニズムに裏付けられていた。『宮本武蔵』(54年)で米アカデミー外国語映画賞、『無法松の一生』(58年)でベネチア映画祭のグランプリを受賞。80年5月21日、肝硬変のため死去。『地獄の蟲』(79年)の監修が最後となった。

入江たか子(いりえ たかこ) 1911〜95
“銀幕の女王”“日本映画のクィーン”として人気を博した華族出身のお嬢様女優である。27年に内田吐夢の推薦で日活に入り、近代的でノーブルな美貌、洋服の似合う抜群なプロポーションで、時代の先端をゆくファッショナブルな女性役をこなし、たちまちスターとなった。32年には女優としては初の独立プロダクションを興し、翌33年には溝口健二監督で『瀧の白糸』に主演。一転して古風な人情に生きる女を好演して、代表作とする。彼女の相手役に選ばれることが、当時の男優にとっては最高の目標だとされた。 晩年には、怪談映画に化け猫役で主演し、人気を博したりもした。

大河内傅次郎(おおこうち でんじろう) 1898〜1962
特異なキャラクターと迫力ある熱演で人気を博し、阪東妻三郎と並ぶ時代劇のトップスターとして活躍した。

劇作家を志して第二新国劇に入り、間もなく俳優に転向。25年には室町次郎の名で映画に初出演するが、彼が脚光を浴びるのは26年に日活へ入社し、芸名を大河内傅次郎と改めてからである。伊藤大輔監督の目に止まり、『長恨』の主役を得て人気を呼び、27年に監督伊藤大輔、撮影唐沢弘光とのトリオで製作された『忠次旅日記』三部作は日本映画史上の傑作となり、大河内のスターとしての地位を決定的なものとした。以後、『血煙高田馬場』『新版大岡政談』(共に28年)『御誂治郎吉格子』(31年)とヒットを飛ばし、トーキー以後も『丹下左膳』シリーズなどを当り役としている。

小津安二郎(おづ やすじろう) 1903〜63
1923年松竹蒲田撮影所入所。撮影助手を経て監督助手となり大久保忠素監督に師事。27年に時代劇部の監督に昇進。そこで終生のコンビとなった脚本家・野田高梧と出会い、デビュー作『懺悔の刃』を製作。以後庶民の姿を描いて追随をゆるさぬ独自の境地をひらき、日本映画リアリズムの確立に貢献するとともに、ローアングルで固定されたカメラ、全編をカットでつなぐ手法は、小津芸術と評され、日本映画界の至宝と賛えられた。

32年『生まれてはみたけれど』、33年『出来ごころ』、34年『浮草物語』と三年連続でキネマ旬報のベスト・ワンに輝く快挙をなし遂げた。又、小津は、エルンスト・ルビッチに深く傾倒していった一人であり、37年の『淑女は何を忘れたか』は世界で最もルビッチ的な日本映画と言われている。53年の『東京物語』は英国のサザランド杯を獲得。63年12月12日満60歳の誕生日当日に死去した。

尾上松之助(おのえ まつのすけ) 1875〜1926
日本映画史上最初のスーパースターである。地方回りの小さな歌舞伎一座にいたところを牧野省三にスカウトされ、1909年に『碁盤忠信』に主役で映画デビューを果たす。以来、芝居や講談でおなじみの豪傑、侠客を次々と演じた他、当時のベストセラーであった立川文庫の主人公もほとんど演じ尽くした。忍術映画の分野も松之助によって開拓され、目の大きいことから“目玉の松ちゃん”の愛称で親しまれた彼は子供達に圧倒的な人気を誇り、映画を真似た忍術遊びが流行した。生涯に一千本の主演映画を作ったと言われており、全盛期には一年に八十本以上の作品を撮っていたが、現在保存されているのは『忠臣蔵』(10年)『豪傑児雷也』(21年)『渋川伴五郎』(22年)ぐらいである。26年、『侠骨三日月』のロケ中に倒れ、9月11日心臓病の為、死去。

帰山教正(かえりやま のりまさ) 1893〜1964
日本映画の革新運動を最初に始めた人物として知られる。「活動写真界」という雑誌の寄稿家から「キネマレコード」という雑誌の同人になり、1917年には「活動写 真劇の創作と撮影法」という映画理論書を出版、映画ジャーナリスト第一号を自認していた。この年、天活輸入部へ入社。重役の理解を得て、外国へ輸出できる映画を目指すという理想の下、実験的な映画製作が許され、『生の輝き』が製作された。帰山は、シナリオの作製、女優の採用、さらに、弁士なしでもストーリーが理解出来るようスポークン・タイトルを挿入したりと、日本映画においては画期的な試みをする。以後、『深山の乙女』『幻影の女』『白菊物語』等、映画芸術協会の名の下に野心的な自主製作を続けるが興行的には恵まれず、監督としては、最後は教育映画を作るなど、24年までに十五本の映画を作るに止まった。 晩年は恵まれず、64年11月8日死去した。

片岡千恵蔵(かたおか ちえぞう) 1903〜82
明朗快活な美男スターとして活躍し、デビュー以来半世紀以上にわたって時代劇の第一線で活躍した。

子供の頃から歌舞伎に入り、やがて映画へ転向。植木進の芸名で『三色すみれ』(23年)に映画初出演をするが、本格的デビューは27年マキノプロに入り、芸名を片岡千恵蔵と改名してからとなる。28年に独立して自らのプロダクションを創設、稲垣浩、伊丹万作という二人の傑出したスタッフを得て、『放浪三昧』(28年)『瞼の母』(31年)『国土無双』(32年)といった抒情的で諷刺的で芸術性の高い時代劇を連発し、従来のチャンバラ中心の時代劇に新風を吹き込んだ。

栗島すみ子(くりしま すみこ) 1902〜87
日本映画史上に於ける女優スターの第一号、草分け的存在として欠かす事が出来ない。

21年に松竹蒲田に入社、ヘンリー・小谷監督の『虞美人草』でデビュー、23年の『船頭小唄』が大ヒットを飛ばし、“蒲田の女王”に君臨した。長くコンビを組んだ池田義信監督と結婚し、大スターのまま、35年の蒲田創立十五周年記念映画『永遠の愛』を最後に引退。その後は、二、三の作品に特別出演したのみで舞踏に専念し、日本全国に数万の弟子を持つ水木流の家元として活躍した。現存している作品には不完全版ながら『不如帰』(22年)『はたちの頃』(24年)がある。

斎藤寅次郎(さいとう とらじろう) 1905〜82
製薬会社宣伝部の活動写真巡業隊にいたのが縁で、1922年松竹蒲田撮影所に入り、大久保忠素監督の助監督となった。一年後輩に小津安二郎がおり、二人は酒飲みで怠け者の大久保監督の代わりに好き勝手な撮影をしていたという。26年、時代劇『桂小五郎と幾松』で正式な監督デビューを果たし、間もなく短篇の喜劇映画に類希な才能を発揮、喜劇映画専門となった。35年に『この子捨てざれば』がキネ旬ベストテンの第七位に入選。全四巻の短篇喜劇としては異例の事であった。

37年に東宝へ移ってからは、『エノケンの法界坊』『ロッパのおとうさん』といった人気コメディアン主演の長篇喜劇を手掛けるようになる。喜劇一筋の監督として撮り続け、62年に胆嚢を患って一線を引退するまで、約二百五十本もの作品を世に送り出した。 82年5月1日、肝硬変の為死去。

寿々喜多呂九平(すすきた ろくへい) 1899〜1960
1899年、鹿児島に生れる。本名・神脇榮満。筆名は大阪夏の陣で活躍した豊臣家の武将・薄田隼人正(すすきだはやとのしょう)からとったと云われ、他に新妻逸平太、神脇満、加味鯨児の筆名を使うこともあった。
苦学しながら独自に書いていた脚本が牧野省三に認められ、1922年、マキノ映画台本部に入る。翌23年に『紫頭巾浮世絵師』が映画化されて脚本家デビューを果たし、続く『鮮血の手型』は阪東妻三郎初の主演映画となった。24年、『快傑鷹』が二川文太郎監督、高木新平主演で公開されると猛闘活劇として大ヒットとなり、脚本家として高く評価される。
同じ下宿に住み、かねてよりその素質を高く評価していた阪妻を主演に据えて、『討たるる者』(24年)『影法師』『墓石が鼾する頃』(共に25年)といった話題作、問題作を次々と世に送り出し、阪妻を不動のスターに育て上げ、25年に不朽の名作『雄呂血』を発表するや監督の二川文太郎を加えたこのトリオは時代劇映画の頂点を極める存在となった。
30年、マキノを離れて帝国キネマに転じ、『水戸黄門・遍歴奇譚』を皮切りに監督業にも進出し、『鏡山競艶録』(38年)『阿波狸合戦』(39年)を代表作とする約四十本の作品を撮った。
54年の『快傑鷹』三部作が監督としての最後の作品となり、その後は病に倒れ、60年12月18日、脊髄カリエスの為死去。61歳。

高木新平(たかぎ しんぺい)1905〜82
1902年11月3日、長野県諏訪町に生れる。20年、日活俳優養成所に入り柳妻麗三郎に師事 、片岡慶左衛門と名乗る。21年に牧野省三が日活を退社し牧野教育映画製作所を設立すると、同僚の中村鬼蔵(のちの月形龍之介)らと共に参加、芸名を片岡慶三郎のち高木新平と改名する。24年に、ダグラス・フェアバンクスの『奇傑ゾロ』を寿々喜多呂九平が巧みに翻案した猛闘活劇映画『快傑鷹』に主演して一躍有名となり、続く現代劇『争闘』ではビルの屋上から隣のビルへ跳び移る冒険をトリックなしでやり、大きな話題となって“鳥人スター”の誕生となった。その後、月形龍之介とのコンビで『刃光』『毒刃』(24年)『何者?』(25年)と活劇映画に主演して全盛期を迎える。
27年に独立プロを起こし、夫人の生野初子を相手役に数本の作品を製作したが、一年余で解散。夫婦で実演の旅に出た後の28年、マキノへ復帰して『崇禅寺馬場』(28年)等に出演するが、もはや全盛期の力はなかった。
30年帝キネに移り、32年宝塚キネマ創立に参加するも、主演作は数本で専ら助演に回り、34年エトナ映画社に移るが大した作品は残せなかった。戦後には、黒澤明監督の『七人の侍』(54年)で野武士団の頭目に起用されるが、57年の『蜘蛛巣城』を最後にスクリーンから姿を消す。往時は月形龍之介に比肩しながら、晩年は不遇であった。67年4月21日、64歳で死去。

阪東妻三郎 (ばんどう つまさぶろう) 1901〜53
“剣戟王”と呼ばれ、“バンツマ”の愛称で親しまれた日本映画界最大のスターである。23年に青年歌舞伎団からマキノプロに入社。端役を務めたのち『鮮血の手形』(23年)で初主演。新鮮なマスクと殺陣のフォームで注目を集め、『影法師』(25年)で爆発的人気を得る。この年、俳優として日本初の独立プロを創設。二作目の『雄呂血』は捕手の群れと大立回りを繰り広げるラストは映画史上の名場面であり、“乱闘劇”の言葉を生んだ。トーキー以後は『無法松の一生』(43年)や『王将』(48年)といった現代劇に新境地を開き、生涯に二百本以上の作品に出演、その殆どを主演で通した大スターである。53 年7月7日、『あばれ獅子』の撮影中に脳出血の為死去。彼の生涯を追った記録映画『阪妻-阪東妻三郎の生涯』が80年に製作されている。

沼田紅緑(ぬまた こうろく)
1891年生まれという事だけで、誕生日、出生地等の詳細は判明していない。
1913年に日活京都撮影所に入社し、牧野省三に師事する。当時の作品には監督不詳作品も多々あるので第一回監督作品は確定出来ないが、記録に残っている最古の監督作品は15年に尾上松之助主演で撮った『法華丈助』である。
21年、牧野教育映画の設立に参加し、曽我廼家喜劇「越後獅子」を翻案した『兄弟仲は』を渡辺篤、江川宇礼雄の主演で監督。23年に、阪東妻三郎の第一回主演作品『佐平次捕物帖・鮮血の手型』前後篇を寿々喜多呂九平の脚本を得て監督し、24年には『燃ゆる渦巻』(牧野省三と共同監督)、『討たるゝ者』で阪妻の人気を不動のものとし、さらに月形龍之介の第一回主演作品『刃光』前後篇を発表。月形はこの作品により時代劇スターとして大きく前進した。沼田監督はこの年、実に24本もの作品を監督している。当時は映画の製作日数が約一週間だったとは言え、驚異的なペースである。
牧野映画創立以来、牧野省三の右腕として活躍、省三の信頼も厚かったが、27年2月、省三を補佐して『忠臣蔵』彦根ロケで雪の立回りシーンを撮影中、風邪に冒されてワイルス氏病を併発。3月13日、36歳の若さで死去した。河原崎権三郎、大林梅子主演の『江戸嵐』(27年)が遺作となった。

牧野省三(まきの しょうぞう) 1878〜1929
“日本映画の父”と呼ばれる映画創草期の監督であり、プロデューサーであり、又、経営者であった。母親が劇場を経営していたことから、活動写真の興行者・横田永之助に劇の撮影を頼まれ、映画との関わりが始まった。地上回りの歌舞伎役者であった尾上松之助をスカウトして映画界初のスターに押し上げ、年間六十〜八十本の松之助主演映画を監督。日本映画独特のジャンルともいうべき時代劇映画を創造、又、トリック撮影を始めとする数々の映画的表現技法を確立した。1919年には「ミカド商会」を起し、教育映画の製作を開始。23年からは独立プロ「マキノ映画製作所」を設立して、監督の仕事を続けると共に、プロデューサーとしての手腕を発揮。監督、俳優を初めとした数多くの優れた映画人をその門下から輩出した。28年には省三五十年記念の大作『実録忠臣蔵』を監督。29年心臓麻痺の為、死去。監督しての遺作は『雷電』(28年)であった。

マキノ正博〈雅広〉(まきの まさひろ) 1908〜93
牧野省三の長男として生まれ、生涯に監督した作品が娯楽映画を中心に二百六十本以上。エンターテインメントとしての映画作りに常に徹していた。

父・省三の下で三歳の頃から子役として映画に出演、『楠公父子・桜井の訣別』(21年)で後の監督・内田吐夢と共演するなど俳優としても活躍。25年に学校を卒業すると同時に俳優兼助監督として正式にマキノプロに入社、父の会社を助けた。26年に『青い眼の人形』で監督デビュー。脚本山上伊太郎、撮影二木稔と組んで、28年『浪人街・第一話美しき獲物』、29年『首の座』と二年連続してベストテンの第一位を獲得。いずれも二十代前半の“マキノ青春トリオ”の時代劇は革命的と反響を呼んだ。省三の死後、マキノプロが倒産すると日活に移って、阪東妻三郎や片岡千恵蔵らの主演で時代劇を手掛け、戦後は東宝、東映で仁侠映画を数多く手掛けた。95年、慢性呼吸不全の為死去。

松田 春翠(まつだ しゅんすい)1925〜87
1925年(大正14年)、初代松田春翠の実子として東京に生まれる。幼くして少年弁士として活躍。出征を経て、47年に復員後、再び活動写真と共に歩み、弁士を務める一方で各地に散逸してしまったフィルムの収集にあたる。48年に二代目松田春翠を襲名。この年、全国映画説明者競演会で優勝。52年にマツダ映画社を設立。59年、毎月定期的に無声映画を弁士付きで上映する「無声映画鑑賞会」を設立して会長に就任。79年、ニュー・サイレント映画『地獄の蟲』を製作。80年、ドキュメンタリー映画『阪妻-阪東妻三郎の生涯』を製作し、演出、ナレーションも担当。84年、ドイツ・フランクフルト映画博物館に招かれ、ヨーロッパで初の弁士公演を行う。松田春翠が収集したフィルムは日本の無声映画を中心に約一千作品、六千巻にのぼり、自身の活弁と伴奏音楽を録音した“活弁トーキー版”三十二作品を製作。63年にミリオンパール賞、85年には第一回東京都文化賞を受賞している。87年8月8日、肝細胞癌のため死去。

溝口健二(みぞぐち けんじ) 
1898〜1956洋画家黒田清輝の研究所に学び図案家を志すが、早々に見切りをつけ、友人の紹介で1920年、日活向島撮影所に入所。23年に監督に昇格し、処女作『愛に甦へる日』を発表。五作目の『敗残の唄は悲し』が初めて世間の注目を集めた。小学校以来の親友、川口松太郎脚本の『狂恋の女師匠』(26年)や主題歌が大ヒットした『東京行進曲』、傾向映画の『都会交響楽』(共に29年)、トーキーの試作映画『ふるさと』(30年)を発表後、33年に入江プロで『瀧の白糸』を監督。溝口作品のキーワードである薄幸な女性・情緒・悲恋の三つが見事に表現された無声映画期の代表作とした。トーキー移行後は、若い脚本家依田義賢とコンビを組み、『浪華悲歌』『祇園の姉妹』(共に36年)と名作を生み、『西鶴一代女』(52年)『雨月物語』(53年)と海外でも高く評価された作品を残した。『赤線地帯』(56年)を遺作に白血病の為死去。女性を描くことに関しては日本で最高の監督と言えよう。

山中貞雄(やまなか さだお) 1909〜38
数々の名作を世に送り出しながら、作品が僅かしか現存していないために、“幻の天才映像作家”と言われる。特に無声映画期の監督作品は完全な形では一本も残されていない。

27年に学校の先輩のマキノ正博を頼ってマキノ映画の台本部に入れて貰うが、本来の希望は監督部であったため、翌年、独立した嵐寛寿郎プロに脚本係兼助監督として移籍した。

29年にオリジナル脚本『鬼神の血煙』が初めて映画化されると先ず脚本家として注目された。嵐寛プロの倒産後もその一党と行動を共にし、『右門捕物帖六番手柄』(30年)等の脚本を執筆。32年に初監督作品『抱寝の長脇差』が発表されるといきなりベストテンに入賞。32年から37年までの六年間に八本のベストテン入賞作を次々と生み出した。37年の『人情紙風船』を最後に出征。38年9月17日、戦地中国において戦病死する。29歳の若さであった。


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