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弁士について  佐藤 忠男

日本で映画が作られるようになったのは1899年頃からである。そして最初の成功したトーキーが作られたのは1931年である。ただし、トーキーの製作は技術的にも資本的にも容易でなく、また日本中の映画館がすべてトーキーの設備を持つようになるのも簡単にはすすまなかったので、製作される映画の殆どがトーキーになるのは1935年頃である。すなわち十九世紀の末年から1930年代の半ばまでが日本映画の無声時代である。

世界中どこでも、無声映画は音楽の演奏つきで上映されたものであるが、日本の無声映画には、楽団だけでなく弁士と呼ばれる説明者がついていた。弁士はスクリーンの脇にいて、上映中の映画のストーリーを語り、セリフを述べたのである。諸外国にも初期にはそうした説明者がいた場合があったようであるが、これが無声映画時代の全期間をつうじて存続し、映画になくてはならない要素になっていたのは、私の知る限りでは日本と韓国とタイだけであったようである。当時韓国は日本の植民地であったし、タイではこの国で最初の映画興行をやったのは日本人の巡回興行者たちだったと言われている。だからいずれも日本の影響かと考えられる。

外国人の書いた興行史では、弁士の存在について、これは当時の日本では文盲が多かったからであると説明しているものがある。しかしそれは間違いである。なぜなら、この時代の日本は世界で最も文盲率の低い国のひとつだったからである。それより、日本では伝統的に、パントマイム式に演じられる芝居に語り手が説明をつける人形劇が広く行われていたことと、普通の演劇である能や歌舞伎でも舞台の脇に合唱団や語り手のつく形式がごく一般的であったことから生じたものだと考えるほうが自然である。

多くの国の映画がそうであったように、日本でもごく初期の映画は舞台劇をそのまま撮影したような作品が多かった。そして映画館では、しばしば五人も六人もの弁士が映画の登場人物たちの役を分担してセリフを言った。弁士の数が足りなければ一人の弁士が声色を変えて二人も三人も担当した。つまり舞台上の演劇を見るのと同じだったのである。だから1920年代に入る頃まで、日本映画のセリフには字幕はなかった。

1920年前後に、日本映画に革新運動が起こる。舞台劇をそのまま撮っているような映画ではなく、カメラワークと編集の力によって、画面を見ているだけでストーリーが理解できるような映画を作ろうという主張をかかげた一部の若い映画人たちの運動である。彼らのある者は弁士も廃止したいと考えた。しかしすでに根強い人気を得ている弁士を使わないということは出来なかった。有力な弁士にはスター以上の人気と発言力があったからである。そこで革新派の若い映画人たちも、せめて何人もの弁士が役を分担するのではなく、一人の弁士が説明するということと、外国映画と同じようにセリフの字幕を入れるということで妥協した。一人で説明するということはそれまでにも行われていたことであるが、この頃からそれが普通の弁士のあり方になり、大勢で説明するということはなくなった。

長篇映画を一人で始めから終わりまで説明するのは肉体的にたいへんであったから、一本の作品は二人ないし三人で途中で交替して説明した。そしてクライマックスの部分を担当するのがその映画館の主任弁士であり、有力な映画館はすぐれた芸を持つ主任弁士を雇わなければならなかった。そして名人と呼ばれる多くの弁士が現れて個性を競った。

映画の革新運動のあと、セリフの字幕が入るようになり、そのセリフを言っている人物がいちいちクローズ・アップで示されるようになると、事実上、弁士がいなくても映画は理解できるようになった。しかしトーキーの時代がくるまで弁士はなくならかった。弁士の話術の芸自体がファンに愛されたからである。わざとらしく大げさな説明から、静かで知的な説明まで、悲愴な絶叫調から、とぼけた味のある漫談調の説明まで、さまざまなタイプの説明者がいた。なかでもっとも有名になったのは、1920年代から東京のいくつかの映画館でヨーロッパ映画―たとえば「カリガリ博士」―を得意とした徳川夢声である。彼の知的で冷静で巧妙な話術はとくに学生層に受け、同時代すべての分野の芸人たちの芸のなかで第一級の芸術であると評価された。

弁士という職業は映画のトーキー化によってなくなった。この無声映画時代の最後の時期に少年弁士だった松田春翠は、のちに失われていた無声映画を蒐集して、1950年代半ばから自分で説明を加えてその上映会を組織した。彼が1952年に設立したマツダ映画社には、現在、無声映画を主として約一千本、六千巻のフィルムが蒐集されており、無声時代の上映形式による映画会が定期的に行われている。この功績によって彼は第一回東京都文化賞を受賞した。


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